【働き方】若い頃は無理するのも仕方ないのか!?〜異動の時期に思うこと〜
若い頃は無理するもの?
昭和の時代の考え方でしょうか。企業戦士として24時間を会社に捧げることが美徳とされていた時代があったようです。同じ会社でとにかくがむしゃらに頑張れば評価されたんでしょう。
これは残念ながら今の霞が関にも残る文化な気がしています。なぜなら私がそう思って頑張ってきたから。
自分自身、無理をすること、自己犠牲が美しい考え方だと信じ、官僚となり、職場に泊まる日々を過ごしてきました。

そんな考え方で日々を過ごしたことが、今の心身の体調の悪さに影響しているのかもしれないと思っています。
その時々で全力を尽くすことは正しいのかもしれませんが、『全ての瞬間において全力投球し続けることは絶対にやめた方がいい』と思います。
人間には好きなことをしたり、休息をしたり、余裕が必要だと感じています。
たとえ、政治家対応や上司対応などで無理をしても、彼らが私の人生の責任を取ってくれるわけではありませんからね。
そして、今、偉くなっている人は『若い頃は無理をしていた』という経験を持つ猛者ばかり。
『若い頃は無理してなんぼ』と心の底で思っていることが、滲み出てくる官僚の方々は多いと思います。
特に優秀な方ほどその傾向にある気がします。これでは官僚の成り手不足に拍車がかかるばかりでしょう。
無理をした先に・・・
城山三郎の『官僚たちの夏』は非常に好きな作品ですが、無定量・無制限に働き続けた先に何が待っていたのか。
出世を期待され、主要ポストを担っていた人が体調を崩して役人として全うできない人生を送った描写を思い出すと悲しくなってしまいます。
官僚になる前、そしてなった後も『壊れるまで働くこと』に美徳を感じて追い込み続けた結果、今の私があります。
プライベートでのある事件をきっかけに私の心身の崩壊は始まりましたが、もし事件が起きずにあのまま官僚として無理をし続けていたらどうなっていたのだろうか。
官僚たちの夏で取り上げられている人達のように、本格的に体調を崩し、早くに亡くなってしまっていたかもしれません。

今となっては、『あの事件が私の命を救ってくれたのかもしれない』とすら思えます。
家族を持つことができ、子供にも恵まれ、一緒に平和に暮らせている現在は幸せだと思います。
鬱にさえならなければ、もっと今を楽しめているんだろうなとは思いますが、仕方ないことだと受け入れる努力をしています。苦しいですが。

他人は他人、自分は自分
人によって頑張れる分野、頑張れる量は異なります。当たり前ですよね。
しかし、霞が関ではそんな人のことを見る余裕などあるわけもなく、壊れたらその人をどこか暇な部署に配置して、代わりの元気な人を忙しいポストに配置するだけに見えてきています。
『さまざまな経験ができる』『短い期間で成長できる』『お国のために尽くすことができる』といった魅力があることは否定しません。
しかし、『代償として心身の健康を差し出す必要がある』といったら、なんだか悲しくなってきませんか?
もちろん官僚の仕事は魅力もあります。ダイナミックでもあり、政治家との距離感や意思決定過程を生々しく見ることができるのは官僚ならではです。
ハイになっている時は楽しくて眠ることすら忘れて没頭できます。しかし、危ない考え方に囚われてしまう恐れもある仕事です。
異動時期に思うこと(令和4年3月末)
私はキャリアの人事をいじったことはありません。しかし、霞が関を離れた今、異動時期に思うのは、『本人のキャリア形成や希望、ライフプランなどが考慮されなさ過ぎてないか?』ということです。
忙しい部署・花形ポストに評価の高い元気な人を配置し、壊れた人・評価の低い人をそれなりのところに配置したら、残っているはずの『普通の人』がいなくなっている組織になりつつある気がしています。人事・人材配置にまったく余裕が無く見えるのです。
人事を差配する優秀な先輩官僚も忙しすぎて、余裕がまったく無いことがわかるだけに、気の毒にも思います。
本人の特長や適正を踏まえて人事をやれたら楽しいのかもしれません。
しかし、今の霞が関の実態としては、人事にほぼ自由度がなくなってしまっているのではないでしょうか?
そんなことを思いながら、4月1日の人事を眺めてみようと思い、今日も一日をなんとこ過ごそうと思います。

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